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 こんにちは、ジャカルタの安丸です。
 本年6月、天皇皇后両陛下がご即位後、新型コロナウィルス感染症によるパンデミックの影響で止まっていた海外友好親善を目的とした訪問の最初の国として、インドネシアを訪問されました。日本でも大々的にニュースで取り上げられていましたので、皆様もご存じの事かと思います。本年は日本とインドネシアが友好条約を締結して65年の節目の年でした。
 両陛下はジャカルタ一等地のケンピンスキーホテルに宿泊されました。このホテルは1962年の第4回アジア大会に合わせてオープンしたホテルで、日本の戦後賠償で建設されたホテルのひとつです。当時からジャカルタのアイコンとして親しまれ、元々はホテルインドネシアという名前で、現在も文化財に指定されているホテルです。当時のスカルノ大統領のお墨付きのホテルで、スカルノ氏ゆかりの絵画や彫刻のコレクションが今でも飾られています。
 両陛下は、ジャカルタの地下鉄の車両基地、ブルイット排水機場(洪水対策施設)、カリバタ英雄墓地、ダルマ・プルサダ大学等を訪問され、陛下はジョグジャカルタの世界遺産であるボロブドゥール寺院も訪問されました。
 今回のブログですが、あらためてインドネシアと日本の親密な関係について、私なりに両国の歴史も踏まえて考えをお伝えしたいと思います。

ボロブドゥール寺院

(Photo by Jonathan-Smit

インドネシアの歴史

 多民族国家であるインドネシア共和国に国のまとまりが生まれたのは比較的新しく、狭義には、第二次世界大戦後の独立戦争を経てということになります。ただこの地域が初めてひとつの政治体として統一されたのは、17世紀に建設が始まり20世紀初頭に完成をみた、オランダ領東インド会社の時代が最初でした。
 下記簡単にインドネシアの歴史を振り返ります。私も今回改めてデスクトップリサーチで調べてみた限りの知識となりますため、不足や不備がある可能性もありますが、この点ご了承ください。

1. 先史時代

 皆さんご存じの、“ジャワ原人”として知られる原人類の化石が発見されたのは、インドネシアのジャワ島でした。化石が初めて発見されたのは19世紀ですが、生存年代はおよそ100万年前とされています。

2. ヒンズー教、仏教の伝来時代

 紀元前1世紀の頃からは、インド洋を渡ってインドの商人たちが訪れるようになり、ヒンズー教の影響を受けた独自の文化が発展しました。7世紀になると、ジャワ島西部にスンダ族がスンダ王国を建国、仏教文化も栄えました。ジャワ島中部でも、仏教寺院であるボロブドゥールが8世紀に建設され、その隣にはヒンズー教を信じるプランバナン寺院も建設され、ヒンズー教・仏教が混在する時代が長く続きます。まだイスラム教はこの時代まだインドネシアには現れていません。

3. イスラム教の伝来

 13世紀になるとスマトラ島の北部にイスラム教が伝来し始めます。11世紀には既にイスラム商人の往来が始まっていて、現地の支配者と強固な関係の構築が始まっていたようです。その後イスラム教はスマトラ島からジャワ島にも伝播し、有力な個々の王国にて、イスラム教を主宗教とする王国が増えていきました。この時代からイスラム教の伝播が始まりました。

4. オランダ植民地時代

 16世紀となると、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて、インドネシアにも訪れることになりました。1602年に、オランダ東インド会社が、ポルトガルやイギリスの競合相手を追いやって、この地域の主導権を奪うことになりました。当時オランダ東インド会社が拠点としたのが、現在のジャカルタであり当時はバタビアと呼んでいました。ジャカルタ地区の車のナンバープレートの最初のアルファベットは「B」なのですが、これはこの名前バタビアに由来しています。 
 19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まりますが、その後オランダ東インド会社が解散されオランダ本国による植民地直接統治が始まり、プランテーション農業等の経済的搾取が本格化していきました。

5. 独立へ動き出すインドネシア

 20世紀初頭になると、オランダは従来の植民地政策を転換し、現地住民の福祉・教育向上と、本国から植民地政府へ権限委譲をすすめる政策がとられました。しかしこの教育にしても一部の親オランダ的なエリートのみへの対策であり、一般の住民は初等教育以上の機会は設けられませんでした。
 ただ、そのような高等教育を受けた親オランダ的な一部の学生たちのなかから、民族の独立を志す若者が現れ始めました。第一次世界大戦を経て、独立を目指す大衆組織サレカット・イスラームが設立され、独立と社会主義を掲げるようになりました。この組織も時を経て、主流派と共産派が対立し、インドネシア内で大きな暴動が発生しこれを弾圧する動きが加速化しました。
 以後、このような民族主義運動は、初代大統領となるスカルノが1927年に結成したインドネシア国民党などにより担われることになりました。その後、インドネシア民族主義運動の頂点となったのが、1928年のインドネシア青年会議による、「青年の誓い」の採択でした。
 これにより、インドネシアがただ一つの祖国であり、ひとつの民族であり、インドネシア語という統一言語を使用すること、及び独立を達成するという決意を内外に示しました。

6. 第二次世界大戦と日本軍政

 ようやく日本が登場します。
 太平洋戦争(大東亜戦争)最中の1942年2月、日本軍の侵攻によってオランダ植民地支配体制は崩壊しました。石油をはじめとする天然資源の確保のため軍政に現地住民の居力を取り付ける必要があったため、日本軍はインドネシア人に対する緩和政策を実施しました。そのためオランダによって捉えられ、流刑先にあったスカルノ氏やハッタ氏らの民族主義運動の指導者が開放されました。
 併せて日本は、オランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認め、イスラム教徒による活動の自由化、オランダ語による初等教育・高等教育をインドネシア語と日本語による教育へと変更しました。
 その後日本のインパール作戦の失敗によって戦況が悪化すると、日本はインドネシアの独立を認める方針へ変更しました。その後、1945年8月19日に、スカルノ氏とハッタ氏により独立宣言をするという方針を日本政府が認めました。
 なお、ご承知の通り、このスカルノとハッタ氏の名前が現在の国際空港の名前となっています。

7. インドネシア独立戦争

 しかし1945年8月15日、日本がオランダを含む連合国軍に降伏すると、念願の独立が反故となることを恐れたスカルノ氏ら民族主義者は、8月17日にインドネシアの独立宣言を発表し、スカルノ氏が大統領に選出されました。
 ただオランダはこの独立宣言とスカルノ氏の大統領就任を無効とし、独立を目指すスカルノ氏等の民族主義者及びインドネシア軍人と、植民地支配再開を願って戻ってきたオランダ軍との間で4年間に及ぶインドネシア独立戦争が開始されました。独立を目指す人々の戦意は高く、この独立派には軍事教練を行っていた日本軍人が約2,000人加わり、訓練や武器の補給を実施しました。この日本人の半数は戦死したものの、インドネシアの独立をサポートしました。
 なお、今回の天皇皇后両陛下のご訪問では、この戦死者が祭られているカリバタ英雄墓地でお二人が黙とうをささげられ、花をお供えされた様子が報じられました。

ムルデカ広場(ジャカルタ)の国家独立記念塔(Monas)

(Photo by gunawanteguh

8. 独立後のインドネシア

 その後1949年12月のオランダ・インドネシア円卓会議にて、オランダは正式にインドネシア連邦共和国の独立を承認しました。1957年には、植民地時代から蓄え続けた自らの利権を死守すべく、インドネシア国内に残っていたオランダ人を追放しました。
 この間、スカルノ氏は議会制民主主義を目指したものの機能不全に陥り、1959年には大統領に強大な権限を与える1945年憲法への復帰を宣言しました。スカルノ氏は「民族独立の父」としての地位、カリスマ性はもっていましたが、特定の指示基盤はもっていませんでした。一方、国軍が国民の求心力を高めることになったため、スカルノ氏はこれを脅威に感じ、これを牽制するためにインドネシア共産党に接近しました。
 1965年になると、国内の経済状況が悪化し、インフレによる物価高が民衆の生活を苦しめはじめました。国民の間ではスカルノ氏と共産党に対する不満が高まっていきました。このような中で9月30日にクーデター未遂事件が起こり、これを鎮圧した国軍のスハルト氏が実権をスカルノ氏から握ることになりました。その後1967年にスカルノ氏は終身大統領の地位を剥奪されました。
 その後スハルト新大統領は、反共産の姿勢を明らかにし、西側諸国に接近、規制緩和と開放経済体制を旨とする経済再建策を打ち出しました。着実にスハルト氏は政権基盤を安定化させ、同時に経済を発展させる「開発独裁」を進めていきました。
 スハルト政権は30年の長きにわたって続きましたが、1997年にアジア経済危機が起こって経済が危機に瀕すると、国民の不満が爆発。民主化を求める市民の群れは暴動となり、華僑が多く住む中華街も暴徒により破壊され、国の統治が図れなくなりました。いわゆる国がアナーキー状態となったのです。多くの日本人を含む駐在員も臨時チャーター便の飛行機にて緊急帰国しました。
 当時私は、前職の総合商社に勤務していてジャカルタに駐在していました。この国が変革することを目の当たりにした私は、日本に帰らず、恐らく日本人としては経験することのない国の変革の状況を目に焼き付けました。
 その後1998年にスハルト氏は大統領辞任に追い込まれ、インドネシアは独裁国家からより民主化国家へと舵取りをすべく再スタートしました。その後は、大統領が何代か代わり、2004年には初の直接選挙も実施され民主化国家が形成され、現在のジョコ政権へ引き継がれることになりました。

日本との関係

 日本とインドネシアの関係は、上述のインドネシア独立に日本が関与したという歴史的背景があるのですが、やはり民間ベースの経済協力の側面が大きいかと思います。戦後日本のインドネシアへの経済協力は、特に人材育成や経済社会のインフラ開発に特化してきた背景があり、インドネシアが好調な時期も困難な時期もODA等を通じで支援してきました。例えば、1997年8月以降のアジア経済危機の際に日本は特別円借款や債務繰り延べ等の支援を実施し、インドネシアの国の危機克服を経済面で支援しました。2000年代までの50年間の最大の日本の国別ODA供与先は、貨幣価値等も考えるとインドネシアが第一位となると言えます。なお、ODA供与先としては、2010年代からは、インド、ベトナム等が増えてきています。
 2004年12月のスマトラ沖大地震・インド洋津波による被害からの復興のために、日本は、6億4千米ドルの支援を実施しました。このようにインドネシアにとって日本は最大の援助国であり、日本にとってもインドネシアは最大規模の援助供与先となっています。

ODA供与先別合計上位5か国(1967~2016年)
順位 国名または地域名 実績(百万ドル)
1 インドネシア 60,180
2 インド 45,065
3 中国 35,480
4 フィリピン 32,780
5 ベトナム 27,225

出典:OECD.Statのデータをもとに日本M&Aが集計・作成 

日本・インドネシアの今後とクロスボーダーM&A

 今後も両国の関係は、パートナーとして非常に強固な関係が続くかと思います。直近ではジャカルタの地下鉄の建設を日本がサポートしましたが、日本の技術力にはインドネシア国民も一目置いています。ただジャカルタ・バンドン間の新幹線建設には中国が起用され、電気自動車(EV)分野では韓国やオーストラリア等の国がパートナーとして起用されるなど、ジョコ政権も日本以外の国々ともしたたかに関係を深めてきています。ここ数年は、補助金よりも開発投資、借款よりも進出外国企業の資金投資を求めるなど、対外的外交策として対等なパートナーシップを求める政策に代わってきているかと思います。
 最近のトピックとしては、5月に開催予定であったU-20のサッカーワールドカップの開催地であったインドネシアがその権利をFIFA(国際サッカー連盟)に剥奪されるということがありました。この理由は、イスラム国家として根強い反イスラエル感情(イスラエルとインドネシアは国交もありません)を西側諸国としてFIFAが由としなかったことによるものです。日本も西側諸国の一員としてやはりこの国の宗教問題には気を付ける必要があります。
 また、経済成長及び投資融資を外交戦略の中心に据えるジョコ政権にとって、米中対立の拡大(日米を中心とするインド太平洋戦略と中国を中心する一体一路戦略)を最大のビジネスチャンスと考え、同時に安全保障上はリスクをどのように最低限に抑えるかをしたたかに考える戦略には今後も注目していく必要があり、日本としては舵の取り方には十二分に注意していく必要があります。
 とは言っても、上記の通り、日本とインドネシアは長年の信頼関係があります。クロスボーダーのM&Aでも、日本企業との提携をまず第一の選択肢として、インドネシア企業オーナーは考えられています。この信頼関係を壊すことなく、皆様と日本企業はもとより、インドネシア企業・国民のためになるM&Aを一件でも多くサポートさせていただきたいと考えています。
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